いつもご覧いただきありがとうございます、日本意匠製作所の店主・小野です。
前回は、私のルーツの奥底にある昭和の戦史として、ミッドウェー海戦において空母「飛龍」と共に散った大伯父の壮絶な最期についてお話しさせていただきました。 極限の状況下で、敵機の初弾を浴びて全身に大やけどを負いながらも、最期まで命の炎を燃やし尽くした大伯父。その「絶対に退かない覚悟」こそが、私が過去の意匠を現代の鎧(アパレル)として復刻し続ける最大の理由です。
今回は、その大伯父が海軍生活の第一歩を踏み出し、己の精神と肉体を鋼のように鍛え上げた「原点の場所」について語りたいと思います。
その艦の名は、大日本帝国海軍の軽巡洋艦「阿武隈(あぶくま)」。 大伯父がこの艦に乗船したのは、昭和12年(1937年)5月15日から、昭和13年(1938年)11月9日までの約1年半。それはまさに、日本という国が引き返せない大きなうねりの中へと突入していく、激動の始まりの時期でした。
【⚓ 斬り込み隊長・軽巡洋艦「阿武隈(あぶくま)」プロフィール】
- 竣工:1925年(大正14年)5月26日
- 沈没:1944年(昭和19年)10月26日(レイテ沖海戦にて米軍の魚雷と爆撃を受け沈没)
- 除籍:1944年(昭和19年)12月10日
- 基準排水量:5,100トン / 速力:36ノット(約67km/h・当時の艦船としては驚異的な俊足)
- 特徴的な意匠(設計):大正時代に建造された「5500トン型軽巡洋艦」の1隻(長良型の最終艦)。しかし、ある大きな事故の「傷跡」により、同型艦の中で唯一、新型艦のような「ダブルカーブ型艦首」を持つに至った、極めて特異で美しいシルエットを誇る名艦です。
特徴的な意匠(設計):大正時代に建造された「5500トン型軽巡洋艦」の1隻(長良型の最終艦)。しかし、ある大きな事故の「傷跡」により、同型艦の中で唯一、新型艦のような「ダブルカーブ型艦首」を持つに至った、極めて特異で美しいシルエットを誇る名艦です。


📐 5500トン型の完成された機能美と「水雷屋」の哲学
歴史に名を残す名艦「阿武隈」ですが、意匠やプロダクトデザインという視点から見ても、非常にソリッドで、無駄を削ぎ落とした「機能美の極致」とも言えるシルエットを持っています。
阿武隈が属する「5500トン型軽巡洋艦」は、第一次世界大戦後の大正時代に次々と建造された、帝国海軍を代表するスタンダードな巡洋艦の形です。 極限まで水の抵抗を減らすために設計された、刃物のように細くスリムな艦体。そして、内蔵された強力なボイラーの排煙を逃がすために甲板にそびえ立つ、3本の巨大な煙突。分厚い装甲(防御力)よりも、とにかく「スピード」を最優先した設計思想です。
なぜ、そこまでスピードが必要だったのか。 それは、阿武隈の役割が「水雷戦隊(すいらいせんたい)」の旗艦(リーダー)だったからです。
当時の日本海軍が最も得意とした戦術、それが夜間の雷撃戦(魚雷攻撃)です。闇夜に紛れて敵の主力艦隊に肉薄し、多数の駆逐艦が一斉に必殺の魚雷を放つ。その血気盛んな数十隻の駆逐艦たちを束ね、最も危険な先頭を走って敵陣へと斬り込んでいくのが、軽巡洋艦である阿武隈の絶対的な使命でした。 海軍内でも、この水雷戦隊に所属する者たちは「水雷屋」と呼ばれ、死を恐れず、荒波を被りながらひたすらに敵へと突進していく、最も過激で勇敢な、そして泥臭い気風を持っていたと言われています。
大伯父は、海軍に入って最初の配属先として、この「阿武隈」の甲板に立ちました。 スマートな空母の航空隊とは違い、塩水にまみれ、重油の匂いが染み付く水雷戦隊の現場。彼はここで、波しぶきを浴びながら、海軍軍人としての骨格と「前へ出る覚悟」を徹底的に叩き込まれたのです。
⚓ 事故の「傷跡」をアイデンティティに変えた、特異な艦首(意匠)
そして、私が意匠を手掛ける作り手として「阿武隈」に最も強く惹かれる理由。それは、彼女が持っていた「同型艦の中で唯一の、特異なデザイン」にあります。
大正時代に設計された5500トン型の巡洋艦たちは、もともと「スプーン・バウ」と呼ばれる、スプーンの背中のように滑らかにカーブした艦首(船の先端部分)を持っていました。 しかし、阿武隈の艦首は、後の時代に建造された最新鋭の重巡洋艦と同じような、S字を描くように鋭く反り返った「ダブルカーブ型」の艦首を持っていたのです。同じ設計図から作られた姉妹艦の中で、なぜ阿武隈だけが違う形をしていたのでしょうか。
実はこれ、最初から狙ってデザインされたものではありませんでした。
阿武隈が竣工してから約5年後の、昭和5年(1930年)10月のこと。激しい夜間演習の最中、阿武隈は操艦のミスから、味方の巡洋艦「北上」の横腹に猛スピードで激突してしまいます。 この大事故により、阿武隈の艦首(先端部分)はグシャグシャに潰れ、完全に切断されてしまいました。
修理のためにドック入りした阿武隈。その際、海軍の技術者たちは単に元の形に戻すのではなく、「せっかく直すのだから、波を切り裂く能力がより高い、最新型の艦首を取り付けよう」と決断します。 こうして阿武隈は、大怪我の修理と引き換えに、他のどの姉妹艦とも違う、より美しく、より実践的で鋭い「ダブルカーブ型の艦首」を手に入れたのです。
これは、アパレルの世界で言うところの、ヴィンテージデニムの「リペア(修繕)」や、日本の伝統技法である「金継ぎ(きんつぎ)」の精神に深く通じるものがあります。 致命的な傷を負っても、ただ捨てるのではなく、修繕することで以前よりも強靭に、そして美しいものへと生まれ変わらせる。阿武隈のあの美しく反り返った艦首は、過去の失敗と傷跡を乗り越え、それを己の唯一無二の「誇り(アイデンティティ)」へと変えた証なのです。
🔥 昭和12年〜13年。激動の海と「探照灯」の恐怖
大伯父がこの阿武隈に乗艦した昭和12年(1937年)5月からの日々は、決して穏やかな平時の航海ではありませんでした。 乗艦からわずか2ヶ月後の7月、盧溝橋事件を皮切りに日中戦争(支那事変)が勃発します。
阿武隈は直ちに戦地へと派遣され、上海方面や中国大陸の沿岸部での作戦に身を投じることになります。陸軍の部隊を上陸させるための護衛や、緊張感の張り詰めた沿岸警備。いつ敵の攻撃があるか分からない実戦の海で、大伯父は「月月火水木金金(休日など無いという意味の海軍の隠語)」の猛訓練と、極限の緊張状態を生き抜きました。
後に大伯父は、空母「飛龍」において「探照灯(サーチライト)担当」という非常に重要かつ、最も危険な任務に就くことになります。 私は、大伯父がこの恐るべき技術と度胸を身につけたのも、他ならぬこの「阿武隈」での日々だったのではないかと推測しています。
夜間の海戦を主眼とする水雷戦隊において、敵艦を闇夜から照らし出す「探照灯」は、勝敗を分ける絶対的な生命線です。 しかし、それは同時に「強烈な光を放つことで、敵の全砲火の標的を自分自身に向ける」ということを意味します。文字通り、自らを囮にして味方に敵の位置を知らせる決死の任務です。
真っ暗な艦橋の上で、いつ飛んでくるか分からない敵の砲弾に怯えることなく、瞬き一つせずに敵影を探し続ける。大伯父のあの強靭な精神力と、ミッドウェーで米軍機の初弾を浴びながらも己の任務を全うしようとした壮絶な覚悟は、この阿武隈の甲板で、荒波と重油の匂いにまみれながら培われたものに違いありません。
🛡️ 先頭に立つ者の孤独。そして現代の「鎧」へ
常に艦隊の先頭を走り、自らを危険に晒して仲間を導く。それが軽巡洋艦「阿武隈」という艦の宿命であり、そこに集った水雷屋たちの美学でした。 そしてそれは、現代社会という見えない戦場を生き抜く、我々大人の男たちの姿にも重なる部分があります。
仕事の最前線で矢面に立つ時。家族や大切なものを背中で守らなければならない時。 時に傷を負い、心が折れそうになることもあるでしょう。しかし、阿武隈が自らの「潰れた艦首」という傷跡を、より美しく鋭い意匠(ダブルカーブ)へと昇華させたように、我々もまた、人生の傷跡や失敗を己の強さへと変えていくことができます。
日本意匠製作所が、過去の意匠を抽出し、無骨なホワイトとブラックの2色のみで構成されたアパレルへと落とし込んでいる理由。 それは、大伯父たちが命を懸けた歴史を単なるノスタルジーとして消費するのではなく、彼らが極限の状況下で見せた「先陣を切る覚悟」や「傷を誇りに変える強さ」を、現代の日常を戦う大人たちに、心身を奮い立たせる「鎧」として身に纏ってほしいからです。
ミッドウェーの深海で眠る大伯父の魂の原点であり、傷跡を誇りに変えた名艦・阿武隈。 その凛とした機能美と、水雷屋たちの熱い息吹。先人たちが残した血の通った意匠の力を、私はこれからも、ブランドの哲学として真っ直ぐにお届けしていきます。