大日本帝国海軍 探訪

左舷の異端児と孤独な反撃。空母「飛龍」に散った血脈と、受け継ぐべき覚悟

いつもご覧いただきありがとうございます、日本意匠製作所の店主・小野です。

冒頭の写真は、AIの力を借りて当時の記録をカラー化してみたものです。 炎に包まれる巨大な艦体。モノクロでは伝わりきらない、その壮絶な熱量と悲劇が、色を纏うことでより一層、胸に迫るものがあります。

これまで、戦国武将の家紋に隠された不屈の精神や、大相撲の土俵に張られた呪術的な結界など、時代を彩った様々な「意匠の美学」について語ってきました。

今回は、少し時代を下ります。そして、私自身のルーツの奥底に触れる、非常に個人的でありながら、決して忘れてはならない「昭和の戦史」と、ある一隻の軍艦のデザイン(設計)についてお話しさせてください。

その艦の名は、大日本帝国海軍の航空母艦「飛龍(ひりゅう)」。 1942年(昭和17年)6月、あの運命のミッドウェー海戦において、私の大伯父が乗艦し、そして艦と共にミッドウェーの深海へとその命を散らした場所です。

【⚓ 帝国海軍の誇り・航空母艦「飛龍(ひりゅう)」プロフィール】

  • 竣工:1939年(昭和14年)7月5日
  • 沈没:1942年(昭和17年)6月6日(ミッドウェー海戦にて味方駆逐艦「巻雲」の雷撃により自沈処分)
  • 除籍:1942年(昭和17年)9月25日
  • 基準排水量:17,300トン / 速力:34.59ノット(約64km/h・当時の空母としては世界トップクラスの高速)
  • 搭載機数:常用57機、補用16機(零戦、九九式艦爆、九七式艦攻など)
  • 特徴的な意匠(設計):世界でも極めて珍しい*左舷中央部」にそびえ立つ艦橋(アイランド)。姉妹艦である「蒼龍」、「赤城」、「加賀」と共に第二航空戦隊を形成し、真珠湾攻撃をはじめとする緒戦で圧倒的な戦果を挙げな、帝国海軍が世界に誇る最強の機動部隊の中核です。
航空母艦 飛龍
航空母艦 飛龍

📐 意匠としての「飛龍」。なぜ艦橋は「左」にあったのか

歴史に名を残す名艦「飛龍」ですが、意匠や設計というクリエイティブな視点から見ても、非常に特異で魅力的なシルエットを持った艦でした。

現代の空母も含め、一般的な航空母艦は、飛行甲板の「右舷(右側)」に艦橋(司令塔)が配置されています。これは、プロペラ機の特性上、着艦をやり直す際に機体が左へ流れやすいという理由からです。 しかし、この飛龍は「赤城」と並んで、日本の空母で唯二となる「左舷(左側)」に艦橋がそびえ立っていました。

なぜ、セオリーに反して左側に造られたのか。 それは、姉妹艦である「蒼龍(右舷艦橋)」と並走して作戦を行う際、お互いの艦橋を内側に向かい合わせることで、航空機の行き来や気流の乱れをコントロールし、より効率的な発着艦のサイクル(巨大な一つの空母のように運用するシステム)を生み出そうとした、当時の設計者たちの極めて野心的で実験的なアイデアでした。

結果的に、やはり操艦が難しいということで以後の空母に「左舷艦橋」が採用されることはありませんでした。しかし、既存のルールを疑い、少しでも戦力を最大化しようとギリギリの設計に挑んだ技術者たちの熱意の結晶。この「左舷の艦橋」こそが、飛龍という艦が持つ唯一無二の個性であり、強烈なアイデンティティとなっているのです。

🔥 運命のミッドウェー。絶望の中での「孤独な反撃」

洗練された美しい艦容と、厳しい訓練をくぐり抜けた精強な搭乗員、そして卓越した技術を持つ乗組員たち。「飛龍」は間違いなく、当時世界最強の空母でした。 しかし、その誇りは1942年6月、ミッドウェーの海で最大の試練を迎えます。

1942年6月5日の早朝(日本時間)。 アメリカ軍の急降下爆撃機部隊による奇襲を受け、主力であった「赤城」「加賀」「蒼龍」の3隻の空母が次々と被弾。飛行甲板に並べられていた航空機や爆弾に引火し、一瞬にして大火災を起こし戦闘不能に陥ってしまいます。帝国海軍が誇った機動部隊は、わずか数分の間に壊滅状態となりました。

ミッドウェー海戦で、敵機の爆撃を回避する飛龍
ミッドウェー海戦で、敵機の爆撃を回避する飛龍
大破した飛龍
大破した飛龍
前部飛行甲板が大破し、前部エレベーターは艦橋前まで吹き飛んでいる。
前部飛行甲板が大破し、前部エレベーターは艦橋前まで吹き飛んでいる。

そんな地獄絵図のような絶望的な状況下で、はるか北方を航行していたために奇跡的に難を逃れたのが、大伯父の乗る「飛龍」ただ一隻でした。

味方の巨大な空母たちが次々と黒煙を上げ、火柱となっていく光景。それを遠くから見つめる飛龍の乗組員たちの胸中は、いかばかりだったでしょうか。 しかし、飛龍の司令官であった猛将・山口多聞(やまぐち たもん)少将は、決して戦意を喪失しませんでした。即座に「我レ今ヨリ航空戦ノ指揮ヲ執ル」と全軍に発信。残存するすべての航空戦力を結集し、圧倒的な戦力を誇るアメリカ軍空母部隊へ向け、単艦での「孤独な反撃」を決断したのです。

🦅 限界を超えた執念。空母ヨークタウンへの痛撃

「飛龍、一艦のみで敵空母を叩く」 それは、生還の可能性が極めて低い、文字通りの特攻にも等しい出撃でした。しかし、飛龍から飛び立った攻撃隊は、友軍の仇を討つという凄まじい執念に燃えていました。

第一波の急降下爆撃隊、そして第二波の雷撃隊(魚雷攻撃)は、アメリカ軍の苛烈な対空砲火と、群がる敵戦闘機の迎撃を掻き潜り、敵空母「ヨークタウン」に肉薄。見事に複数の爆弾と魚雷を命中させ、これを大破・航行不能に追い込むという、世界の海戦史に残る驚異的な戦果を挙げました。 圧倒的な劣勢の中で見せた、日本の意地。まさに限界を超えた反撃でした。

🌊 大伯父が見た最期の空と、現代の鎧に込める祈り

しかし、その日の夕刻。単艦で奮闘を続けていた飛龍にも、ついに運命の時訪れます。

上空から急降下してきたアメリカ軍のSBDドーントレス爆撃機に捕捉され、飛行甲板の前部に4発の爆弾が立て続けに命中。恐ろしい大爆発と大火災を引き起こしました。

私の大伯父は、飛龍の「探照灯担当」として任務に就いていました。しかし、敵機の放ったその初弾の直撃を受け、爆発に巻き込まれてしまいます。 全身に大やけどを負うという絶望的な重傷でしたが、それでも大伯父にはまだ息がありました。燃え盛る艦から救出され、味方の駆逐艦「巻雲(まきぐも)」、そして戦艦「榛名(はるな)」へと、戦友たちが懸命に搬送してくれたそうです。 しかし、どれほど手厚い救護を受けても、その傷はあまりにも深く……最終的には助からないと判断され、戦友たちに見守られながらミッドウェーの海で静かに水葬(すいそう)されました。

夜通しの必死の消火活動も虚しく、飛龍も翌朝に総員退去となります。 山口司令官と加来止男(かく とめお)艦長は沈みゆく艦に残ることを選び、最後は、大伯父の命を繋ごうと運んでくれた駆逐艦「巻雲」の魚雷によって自沈処分となりました。美しき左舷の異端児は、深い海の底へと姿を消したのです。

全身に大やけどを負いながらも、最期まで命の炎を燃やし続けた大伯父。炎に包まれる甲板で、あるいは搬送される艦の上で、彼は最後に何を思ったのでしょうか。 味方が全滅し、圧倒的に不利な状況に陥っても、決して背を向けず、最後の一瞬まで己の責務を全うしようとした彼らの精神。私はそこに、時代を超えて胸を打つ「究極の覚悟」と「男たちの美学」を見ます。

日本意匠製作所が、過去の武将の家紋や歴史の意匠をアパレルとして復刻している理由は、単なるノスタルジーやファッションではありません。 先人たちが極限の状況下で示した「絶対に退かない覚悟」や、逆風の中でも己を貫く「誇り」。それをただ歴史の教科書の中の出来事にしてしまうのではなく、現代というタフな日常を泥臭く生き抜く大人たちの背中を推す「護符」や「鎧」として、身に纏ってほしいと願っているからです。

大伯父が命を懸けた「飛龍」の孤独で気高い戦い。 その血脈を受け継ぐ者として、私はこれからも先人たちが遺した意匠の奥底にある熱い魂を、現代の皆様にお届けしていきたいと思います。

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